会話のタネ!雑学トリビア

裏モノJAPAN監修・会話のネタに雑学や豆知識や無駄な知識を集めました

旅行の生活を取るか今の仕事をとるか人生は選択の連続だ

話は、今から半年ほど前に遡る。
俺は、かねてから計画を立てていたインド旅行を実現すべく、日本を飛び発った。
慣れぬ原稿書きに追われ、締め切りに苦しんだ2年間。溜りに溜ったストレスをリセッ
トするには、せわしない東京を離れ、ノンビリ過ごすのが一番だ。

価値観を変えるとか、旅人を呼び寄せるとか、何かと評判の高いインドという国自体にも並々ならぬ興味を持っていた。
旅は楽しかった。首都デリーから始まり、有名なタージ・マハールのあるアーグラ、聖
地バラナシ、四大都市マドラス、世界中からヒッピーの集うゴア、そして砂漠の街ジャイサルメール。目的地も決めず、気の向くままインド大陸を放浪した1カ月半、俺の気持ちは弾みっぱなしだった。
ガイドブックにも載らないマニアックなスポットを訪れるのも楽しいが、何より、旅情
をかきたられたのは、見知らぬ人たちとのふれあいだ。
特に思い出深いのが、インド最南端へ向かう列車で知り合ったオヤジである。小汚い外
国人旅行者が珍しいのか、自宅に泊まっていけと言ってきかない。結局、彼の好意に甘え、3日間も世話になってしまった。その間、客人としての丁重な扱いは格別なものだった。タージ・マハール近くの土産物屋で声をかけてきたガキもまた、なかなかナイスなヤシだった。どこで覚えたのかヤシは実に流暢な日本語で言うのである。

「お前、日本人か。もうタージ・マハール見たのか」
「いや、まだだけど」
「あそこは高いぞ。俺がダダで見れる場所に案内してやろうか」
確かに、タージ・マハールの入場料は高い。
シャワー付きホテルの宿泊代が500円前後なのに、約2千円もする。迷わず、俺は少年の申し出を受けた。
「んじゃ案内料として300ルピー(約850円)な」
「...え?」
長い交渉の末、ルピー(約140円)まで値切り、裏通りの穴場からあの世界的建造
物を眺めた。他の観光客が高いカネを払っているかと思うと、何だかちょっとうれしい。
インドは異端の国とも神秘の同とも言われる。が、俺がじかに触れたインドはそうじゃ
ない。汚くて、貧しくて、ポッタクリ商店と親切な人がやたら多い、バイタリティ溢れる国だった。う-ん、何だかこっちまで元気が出てくるぞ。来てよかったなぁ。

『おう、久しぶり。明日の夜、ちょっと時間ない?」
編集部の藤塚氏から連絡があったのは、日本へ帰国して1カ月ほど経った、今年3月の
ある日のことだ。何でも、鉄人社の飲み会があるとかで、俺にもぜひ顔を出せという。
ダダ酒が飲めるというので、二つ返事で承諾したものの、電話を切った後、ふと得体の
知れぬ不安がよぎった。
これまで忘年会に参加することはあっても、単なる飲み会に呼ばれた経験は一度もない。なのに、なんで?
その疑念は、翌日の夜、指定の居酒屋に顔を出してからますます強まった。
求められるまま、インド旅行の土産話をしていても、皆の視線がキョロキョロと落ち着
きがない。部員の中から、しきりにこんな質問が飛んでくるのも解せなかった。
「1人旅が好きなんだ?」
「インド以外でどっか旅してみたいところないの?たとえば日本国内とか」
「旅が似合うなぁ」
もう何と言いますか、イチイチわざとらしい。いったいぜんたい、何を企んでおるのか
ね、キミたち。
謎が解けたのは、ぎこちない飲み会が始まって30分後のことだ。トイレから戻ると、俺
は尾形、藤塚両氏の間に座らされた。
「虫象くん、突然だけど、実は新たな連載を考えているんだ」
「・・・愛え?.」
「その-、日本をだれ、1年以上かけて縦断してほしいんだ」
「は?」
意味の飲み込めない俺に、赤ら顔の尾形氏は言った。
旅のルートは北海道から沖縄まで。道中、何をするか誰と交流を持つかはすべて虫象く
んに任せる。必要ならば一度行った町に戻ったってぜんぜん構わない。
「ちょっと待って下さい。今日呼び出されたのはそういうことだったんですか。だったら僕は…」
「まだ話は終わってないぞ。いったん旅に出たら、連載が終わるまでは絶対東京に帰って来ちゃいけない。あと、最初に軍資金として20万ほどお金は渡すけど、それ以外、編集部は一切負担しないから。つまり、行く先々で仕事を探さなきゃいけないっていうわけ。どうだ」

どうだ?と言われても困るって。俺にだって東京での生活があるし、バイトだなんだと
いろいろ忙しい。無理に決まってるじゃないすか。ハッキリ断っていれば、話は済んだのだろう。

が、性格上、気の弱い俺はそうもいかない。暖味にはぐらかすうち、業を煮やした藤塚氏まで説得に乗り出してきた。
「なあ、行けよ虫象。こんな連載できるヤシ、お前しかおらんぞ。てか、そもそもこれってお前のために考えられた企画やし」
「そうそう。ホント言えば俺がやりたいくらいだよ。めつちや楽しそうじゃん。でも、この歳になるともう遅いんだよなぁ。やっぱ虫象くんが適任だと思うけどなぁ」
他人事だと思って、言いたい放題だが、とにかく、この場は断りきれる雰囲気じゃない。
「話はわかりました。でも…ちょっとだけ考えさせてください」

家に帰り、改めて今日の出来事を振り返ってみた。悪い話ではない。いや、旅好きな俺
としては、考えれば考えるほど興味が湧いてきたというのが本音だ。

尾形氏が言った「若いときにしかやれない」ということばにも魅力を感じる。
しかし、だからといってその企画が現実的に可能かと言えば、大いに疑問だ。
ぶっちゃけ、職を転々としながら1年間も放浪し続けるってどうよ・不安定な生活を強
いられるのは目に見えてるし、ストレスも相当なものだ。そもそも、住所不定の人間が、都合良く仕事にありつけるんだろうか?
自宅アパートを長期間空けるのも何だか怖い。たとえばデスクトップ型パソコンには、
人様にはとても見せられないプライベート画像や動画がてんこ盛りに保存されている。部屋に押し入った泥棒が、データをネットに流しちまったら…。

イカン、それは断じてイカン。そして、何より一番の懸念は、自らの芸能活動に致命的な支障が出ることだろう。
ご存知ない方のために説明しておくと、実は俺、5年ほど前からとあるアングラ劇団を
旗揚げし、生意気にも座長を務めている。メンバーは俺を含めてたった3人。吹けば
飛ぶような超弱小団体ではあるが、年に数回は公演を打ち、少ないながら固定ファンもついている。
一方で、幼なじみの相方とも2年前にお笑いコンビを結成、某芸能務所主催のお笑いラ
イブにもちょこちょこ出演している。しかも運のいいことに、現在、別の芸能事務所と契約を交わせそうな段階にきているのだ。酒むろん、劇団にしろお笑いにしろ、まった
く食えていない。細々とバイトをし、糊口を凌いでいる状況だ。それでも自分の中では、その2つの活動が本業だと認識している。ライターの仕事はあくまで副業に過ぎない。
やっぱり連載の話は断ろう。俺にはどだい、無理な話だ。それから2週間、ついに編集部へ断りの電話を入れることはなかった。何度ケータイを手にしても、寸前のところで決心が鈍るのだ。
理由はわかっていた。日増しに企画に対する思いが強くなっていることに加え、今まで
取り組んできた芸能活動に対しても疑問が生じていた。
もともと劇団の方は、気の合う仲間たちと遊び半分で始めたのものだ。特にメジャー志向なワケでもなく、惰性で続けているといった方が正解かもしれない。
お笑いに関してもそうだ。相方のMは、3年勤めたテレビ制作会社のADを辞め、お笑
いで成功することだけを信じ、ライブやネタ見せを精力的にこなしている。一方、俺は芸人に向かないのではという思いが常に頭の中にあった。絶対コレでのし上がってやるという意欲もあまりない。それだけにMとは温度差があり、ときに衝突することも少なくなかった。
もちろん、だからといってこれまでの自分の生き方を否定するつもりはまったくない。
ただ、あの日の飲み会がキッカケで、心の中のつつかえがあふれ出てきたのも事実だった。
演劇を続ける意味はあるのか?お笑いは俺が望む未来なのか?
とりあえず、劇団のメンバーに事情を話してみたところ、想像どおりのリアクションが返ってきた。
「え、1年も旅に出る?それじゃウチの劇団も終わりじゃん」

副座長のUが驚けば、隣りに座るYも表情を曇らせる。
「確かに、和田がいないと他に脚本書けるやついないもんな」
うんうん、そうだよな。やっぱお前らに迷惑をかけるワケには…。
「でも、行くにしる行かないにしろ、和田の決断は尊重するよ」
「え?。」
「俺たちに引き止める権利はないからさ」
…ちよ、オマエら、なに青春ドラマみたいなこと言ちやってんの?止めてくんないの
一方、お笑いの相方、Mの反応は正反対だった。
「やっと軌道に乗ってきたところなのに1年も待つとられるわけないやろ。絶対行くなよ」
ネタ作りや舞台にも慣れ、ライブにも安定して出場できるようになった矢先のこと。俺
とは違い、お笑いに対して背水の陣で臨んでいるヤシには青天の解露だったに違いない。
「てか、お前の腹はもう決まつとるんか?」
「まだやけど、だいぶ雑誌の仕事の方に心が傾きかけとる」
「ダメやって!止めとけ」
幼稚園からずっと一緒だったMの気持ちは、痛いほどわかる。けど、そんな一方的な言い方もないだろう。

「でもM、どうするかは俺が決めることや」
「じゃあ、お笑いはもう止めるんかい!俺はどうなってもいいんかい.ふざけんなよ」
「そんなことひと言も言うとらんやろがい-」
ケンカになって外に飛び出した。なんや、アイッは。自分のことしか言っとらんやないか。
自宅で缶ビールを数本飲み干し、床にごろりと転がる。しばらくして、Mから何度かケ
ータイに連絡が入ったが、出る気にはなれなかった。
先ほどからテレビでは、若手の芸人たちがさほど面白くもないギャグをけたたましく喚
き散らしている。その様をジッと見ていると、完全にお笑いへの思いが冷めている自分に気づいた。画面を眺めていた俺は、スイッチも消さず、布団にもぐり込んだ。