旧地名、裏土腐である。洪水多発地帯で、辺りの土が常にドロドロでドブのようだという理由で名づけられたらしい。
地図によれば旧裏土腐地域は、南に川、北側に小高い山がそびえている。川の氾濫
にくわえて、山から雨水が流れ下りてくることでたびたび水害に悩まされていた町だと考えられる。最寄り駅を降りたところで周囲を見回してみる。むろん地面にドブなど見あたらず、舗装された道路が続くばかりだ。山側に向かって歩き出し、すれ違う方々に聞き込みをしてみた。全員が過去にドブだなんて地名がつけられていたことを知らず、ドロドロ地帯なんて存在しないと言うばかりだ。やはり整備が進んだ現在ではドブと形容された名残はないのだろう。そのまま歩いていたら高い壁に突き当たった。これが例の山か。山肌に沿って続く道を歩いているうちに、山に入っていく小さな階段が見えた。上がった場所にあったのは、仏が彫られた石像だ。線香と花がお供えされている。さらにすぐ近くに、7、8つほどの墓石が。階段を下り、再び山に沿って歩く。しばらくして一軒家があらわれた。開かれた窓の奥に男性の姿が見える。
「こんにちは」
「お、はい」
「あの、ここらへんって裏土腐って呼ばれていたらしいのですがご存知ですか?」
「ああ、うん、知ってますよ」
「昔は洪水なんかで地面がドロドロだったらしいんですけど、今はどうなんでしょうか?」
「大丈夫だと思いますよぉ」
「そうでしたか」
「そこの山は崩れてくるけどねぇ」
崩れる?
「山肌がね、崩れるんですよ。雨がたくさん降ると、ときどき」
むきだしになった山肌が崩れてくるって、それ怖くないのか?
「怖いよ。大きな岩がすぐそこに転がり落ちてきたこともあるんだから、大雨のとき。怖いっちゃ怖いけど、親からもらった家だから手放すわけにはいかないよねえ」
さらに男性は続ける。雨水が山から流れてきて床下浸水になったことも1度や2度
じゃないと。また歩きだしたところで視界が開けてきた。国道にぶつかったためだ。道路に沿っていくつか高層マンションが並んでいる。その先に川が見える。いつの間にか駅の周辺をぐるっと周っていたのだろう。あっ、中学校があるぞ。
土曜日なので校内や校庭に人は見あたらない。その代わりに近くの路上で子供たちがサッカーをしていた。
「ここらへんって雨のときに川が溢れてきたりするのかな?」
「ときどきしますよ!」
「怖い思いとかはしないの?」
「しないしない!」
「山のほうはヤバイですけど」
「ヤバイって?」
「がけ崩れみたいな、石が落ちてきたり!」
さっきの男性が言ってたのと同じだ。
「墓もありますよ! あれ、がけ崩れで死んだ人のなんで」
もしかしたらと思っていたが、やっぱりそうなのか。さらに川のほうへ向かう途中で赤ちゃん連れのご夫婦に話を聞いたところ、梅雨の時期は道路が冠水して小学校が休校になることがあるらしい。自転車通勤のお父さんは家の前の道が水浸しで仕事に行けないこともあったとか。川にぶち当った。水位は低く、流れも穏やかだ。しかしそばには『雨の日は近くで遊ばないように』との看板が設置されている。大
雨が降ったら急激に増水するのかもしれないと思ったら急に不安になってきた。空は
曇っており、今にもぽつりときそうなのでなおさらだ。そんなことを考えていたら川沿いを散歩するご老人が見えた。
「お尋ねしたいのですが、大雨のときに怖い思いをしたことってありますか?」
「え? ありますよ。あのね、川から水が溢れるのと、山から水が流れてくるんでねぇ…」
ご自宅がちょうど川と山の中間あたりに位置しているそうで、数年前、床下浸水、道路水浸しで1日家から出れずに大変だった、とくすくす笑う。
「水がひいたから良かったけどね、あのままだったらどうしたらいいのかわからなくてすごく怖かったですよ。このへんには住まないほうがいいよ、アハハ」