会話のタネ!雑学トリビア

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鑑別所少年院の青春・非行少年の更生体験談

君という人間を知ってから処分を決めます
中学生になったころには、すでに近所で評判のワルだった。ちょっと派手な服を着ただけで「アイツと遊ぶな」とレッテルを貼られ、それに反発して悪い仲間に近づくという最悪パターン。

気付いたときには万引き、カツ上げ当たり前、バイクを盗み、ケンカの毎日を送るようになっていた。初めて警察の世話になったのは中2の夏だ。当時つきあっていた彼女とトラブリ(思い出したくもない)、補導。

日本には『14才に満たない者の行為は、罰しない』との法律が存在するため、13才だったオレは児童相談所送りになった。

ツリーテスト(木を描く)やロールシャッハ試験(インクのシミが何に見えるか)を受け、散々説教を聞かされたことを覚えている。

2、3度通いバックレたが、そのまま呼び出されることもない。ハクを付けたオレは学校にも行かず、不良仲間と一緒に暴れまくる。

家裁に呼ばれたのはその年の冬だ。同級生を殴ったのが原因らしい。どうせまた説教たれて終わりだろ。早く済ませてくれ。

フテ腐れるオレに、家庭調査官を名乗るオバチャンが不吉なことを宣った。審判を受けてもらうだと?
連れていかれた審判廷には、別の調査官や判事、廷吏、それにオレの両親も揃っていた。
皆の前で住所や名前、罪状を質問され、散々説教を聞いた後、判決を言い渡された。
「では、今から3週間、鑑別所で生活してもらい、君という人間を知ってから処分を決めます」
処分とは保護観察処分で釈放されるか、少年院に収容されるかの二者択一だ。
この鑑別所からオレの鉄格子生活が始まったのである。家裁からそのまま向かった鑑別所は、古びた学校のような建物だった。髪は丸刈り、持ち物はおろか私服も脱いで上下紺色の制服に着替えさせられた。
身体検査の後、いくつか鍵付きのドアを通って独房へ。むき出しの便器と洗面所の他、テレビや整理棚などが置かれた狭いスペース。1人になってしみじみ周りを見回すと、壁には「××参上」「年少上等」など強がった落書きや、「帰りたいよ〜」と正直な心情が刻んであった。
鉄格子はともかく、鑑別所の生活を一言で表すと、全寮制の学校という感じか。
朝7時に音楽とともに起床して清掃、食事を済ますと、体育の時間。その後は非行歴や
性交回数など生活調査のアンケ-卜に答えたりIQテストや適性試験を受け、その他の時間は「室内作業」を行う。場所によって作業内容は異なるらしいが、オレの入った鑑別所は、週に1作品の「貼り絵」を作ることが義務づけられていた。
午後4時に夕食を食べると、後は9時の消灯まで本を読むか、所内放送を聞くぐらいしか手はない。ちなみに、内容は非行少年の更生体験談がメインだ。
初めて他の入所者を見たのは
適性試験の会場だ。当然、みなオレより年上で、ヒゲ面のいかりつい奴や金髪姿のにやけた野郎率の他、なんでアンダみたいな人が、と不思議に思えるメガネをかけた真面目くんもいた。
鑑別所が学校と違うのは、毎日の生活態度も全部監視されている点だ。当然、少年院に行きたくないオレたちは、反省したブリをして過ごす。いくら心理技官に「非行に走った原因を考えてみましょう」と言われても、頭の中はどう答えれば心証が良くなるかしかないのだ。
3週間後、家裁の審判で処分が言い渡された。
「初等少年院送致にします」

 

雪がちらつく寒い日、鑑別所の教官と上越新幹線に乗り、群馬県の赤城少年院へ向かった。義務教育を終了してない14〜15才の少年を収容する、長期処遇用の初等少年院だ。オレはここに1年ほど収監されるらしい。

着くとすぐさま紺色の制服に着替え、システムの説明を受けた。どこも共通で、入所←2級下←2級上←1級下←1級上に級分けされ、毎月の「成績」で進級するという。
その判断基準となるのが、3つの個人別到達目標(暴力を奮わない、薬物に手を出さないなど個人的なもの)と、全員共通の5つの目標(規範意識・生活態度・学習態度・対人関係・生活設計)に対する採点(a〜e)、そして総合評価(A〜E)だ。
AとEはめったに付かず、普通なら半月(場所によっては1カ月)退院が早くなり、違反などを犯しDになったら遅くなる。
1年相当で入所しても、成績如何によっては前後し、実際、学習態度が悪いと、予定より1年以上オーバーしてもまだ出られない者もいる。
恐らく一般の人たちは、ヤンチャな連中が集まる少年院は、さぞや荒れてると思うだろう。
オレも入所するまではそう思っていた。が、すぐに悟る。暴れれば退院が長引くだけだ、と。
新入者は、まず個室へ2週間入れられる。これまでのことを反省しろということらしい。が、暖一房器具のない独房はまるで冷蔵庫の中。寒くて仕方なかった。
夜、ろくすっぽ眠れないから、正座で目を閉じ「内省」すれば眠気がやってきて、眠れば怒られる。出たら何をしよう。そのことばかり考えていた。
独房生活でC以上を取れば、2級下に進級し、一般寮に移される。集団生活で、それを5人の教官が2,3人ずつ担任として受け持つ。日中は入所者が自由に出入り可能なホ
ールで勉強したり本を読むなりして過ごし、寝るときだけ4人部屋に戻る形だ。
スケジュールは、意外なほど忙しい。朝6時別分に起床すると、掃除、朝食、朝礼(所長の訓辞に、院歌斉唱、ラジオ体操)。

その後は「実科」(少年院で食べる野菜を育てる農耕科や、洗濯科、資格取得を目指す溶接科、ワープロ科など)に分かれ、昼食を挟んで午後4時の夕食まで作業が続く。
夕食後は、読書をするもよし、簿記や調理師の通信教育を勉強するもよし。夜の8時からテレビも見られる。入浴は週2回、手紙や面接は月2回。1日遅れの新聞も読めるし、毎月自費で「中学生コース」を購入することもできた。
まるで合宿生活のようだ。そう思われるかもしれない。しかし、単なる合宿と決定的に違うのは、収監者同士、事件のことはもちろん出身地やプライベートなことを話してはイケナイ規則があることだ。
そうはいっても年頃の野郎ばかり。仲良くなれる機会もあるだろう。そう思いきや、現実は甘くない。同じ歳ごろなだけに成績のいい人間や面会が多い者への嫉妬や妬みは激しく、話してる場面を見られれば告げ口されるのが当たり前(違反として点数に響く)。中には、教官に見られないところでワザとぶつかったりなどのイジメもある。
さらに、毎月、成績の参考にするためと称し、担任教官が「頑張ってる人、なまけてる人、嫌いな人、好きな人」の名前を各人に書かせた。鉛筆を転がしてでも必ず記入しろとの強制である。
これは想像以上のストレスだった。
さらに、ショックだったのは、軍隊式の基本動作を叩き込まれたことだ。前へならえや回れ右を、しつこいほど行い、ラジオ体操は手の開き具合から足の位置まで細かく直される。移動の際の行進や、人数確認の点呼の仕方もマンガで見た日本軍そっくりだ。少年院は更生施設のため、通常の学科に加え、特別プログラムが設けられている。被害者の立場になって自分宛の手紙を書く『ロールレタリング』と、『講座』と呼ばれる薬物や暴走行為の危険性、命の大切さを説いたビデオを鑑賞し、感想を書く時間だ。
ときどき週刊誌などに公開される、重要事件犯の反省文や被害関係者への手紙を思い出してほしい。
残忍な手口で犯行を犯した少年が、これでもかとばかり自らを戒め被害者に頭を下げる。
まさしくアレだ。
オレも、散々自分の非を詫び、「今後二度と同じ過ちは犯すません」と何度も書いたかしれないが、自分の本心から出た言葉ではない。そう書いた方が教官の受けがよく、早く退院できると思ったからにすぎない。
確かに少年院に入ると、外で好き勝手やってた人間も従順になったように思える。が、それはあくまでブリだ。
冬の寒さ、夏の暑さと蚊に苦しみ(暖房も冷房もない。夏は1人に1本うちわが支給されるが、消灯後、使ってはイケナイというバカげた規則がある)、寮内の人間関係に悩む毎日。正直、被害者のことなど考えるヒマはない。
昔は《年少地獄》などと歌われた少年院暮らしだが、毎月の誕生会に始まり、花見や運動会、収穫祭など季節ごとのイベントや、ボランティアの慰問に助けられ、なんとか1年をやり過ごした。
年明け退院。毎月、保護司の元に出向いて生活状況を報告し、OKが出るまで保護観察となった。

かろうじて、母校の中学を卒業すると、全寮制の専門学校に入学した。あんなツライ思いをするなら、二度とバカなマネはしないと誓ったはずなのに、学校で禁止されている男女交際がバレ、ソク退学に追い込まれた。
プーをするにも金がなくちゃ始まらないと、またゾロ地元の悪仲間と街に繰り出してはカツ上げの日々。そのうち何件かで足が付き、赤城を出て半年もしないうちに鑑別所に戻されてしまう。もっとも、泥沼の生活をリセットできると、ホっとした気持ちがあったのも事実だ。
今度は審判の結果、栃木県の喜連川少年院送致と決まった。
ここは少年を収容する中等少年院で、条件が合えば外部の高校の通信教育生となったり、「大検」を受けられるのが特徴だ。鑑別所の面接で、進学したいと伝えたのが作用したらしい。
多少の希望を持って入所したその日、オレは現実を思い知らされる。入所の挨拶から教官がいちいち言葉遣いを直し、呪みつけてくる。赤城とは段違いに厳しそうだ。
翌日、朝礼の時間に100人ほどいる院生の前で「よろしくお願いします」と挨拶、顔を上げると、あちこちに赤城で見知った顔がいた。中には、毎月評価Bを取り、スピード退院していった模範生もいて、なんだあいつもメッキだったのかと胸をなで下ろした。
赤城と同様1週間独房で過ごした後、一般寮に移る。改めて、2級下からの再スタートだ。何もかも赤城と同じと恩いきや、ここにはとんでもない規則が存在した。寮生同士は、必要事項以外、まったくしゃべってはいけないというのだ。

最後の1週間は、優等生として個室が与えられ、久々の開放感を満喫した。
いま思えば、喜連川で唯一、役に立ったのは、出院後の模擬生活シュミレーションを学んだことだ。家を出て彼女と結婚しようと思っていたオレは、このまま就職しても、妻子どころか自分の生活費さえ賄えない現実を思い知らされていた。