会話のタネ!雑学トリビア

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南アルプスの冬登山単独行で骨折、危険すぎて死にかけた

学生時代から登山が好きで、休日のたび近くの山に登っていた。

ロッククライミングなんて大袈裟なもんじゃない。
単に、都会の喧騒から離れた新緑豊かな山の風情が好きだっただけだ。
が、結婚、子供が生まれると、そんな道楽も続けていられない。
25才を境に山から遠ざかっていた。

それが、40代で離婚。自分で電子部品製造をやりながら、気ままな一人暮しになると、再び登山欲がわき起こってき、た。
新たに山岳写真に魅せられ、あちこちの.山に出かけシャッターを切ること1年。私はどうしても初日の出を撮りたく画なった。
正月に南アルプスの山頂でご来光を見ながら噸フランデーを飲もう。

年の暮れ、9日間の予定で南アルプスヘの単独行を決意した。
さっそくテント、寝袋、防寒具、アイゼン(登山靴の底に付ける滑り止め具)、ピッケル(金具のついた登山用の杖)などの装備に、加日分の食料とタバコ。そして忘れちゃならない、写真機材を準備。総重量は軽く40キロを超えていた。

早朝、私は愛知県春日井市の自宅を車で出発、長野県下伊那郡大鹿村へ。湯折地区で車を降り、そこから登山口へタクシーで行けるところまで進んだ。
計画では、南アルプスの中間に位置する三伏峠から南下、烏帽子岳←小河内岳←荒川岳を縦走し、大聖寺平から尾根を下って広河原小屋を経由、1月7日に湯折まで戻る予定だ。
峠まではひたすら林の中を上り、2600メートルを超す稜線へ出た途端、眺望が広がる。富士山や南アの山々を撮影しながら尾根道を行けば、巨峰・荒川岳の肩まではさほどの苦労もない。荒川小屋のテンバにテントを設営、ベースキャンプに定めた。1週間、ここでのんびりしよう。
食事は生麺タイプのスパゲティやラーメンを主に、ときにはモチを放り込み即席の雑煮を味わう。水の代わりに手近の雪を放り込み、暖は使い捨てカイロで取った。この「傍びしさ」こそが、山の醍醐味だ。
果たして、1月1日は晴天だやった。ご来光を拝みながら飲るブランデーの、なんと美味かつたことよ・

1月7日下山。テントを撤収し、稜線を南に進む。下山ロの大聖寺平までは30分もかからずに到着、ルートを確認してから慎重に下り始めた。ところがすぐさま、私はある事実に気づく。登山道であるはずの尾根に、トレース(足跡)が一つもないのだ。私の他に登山者がいないとは、天気のいい正月時期に考えられない。
途中、雪崩でも起きてルート変更を余儀なくされたのか。
思案しながら歩き回ると、少し先でアイゼンの跡が見つかった。何となく脈に落ちなかったものの、万が一の場合は引き返せばいい。私はその跡を辿り始めた。
まもなく凍り付いた滝に出くわした。どうやら登山道を外れ、荒川の前岳西側の沢へ入り込んだらしい。
先行者はこの滝を、ザイル(登山用のロープ)とハーケン(岩の割れ目などに打ちこむ釘)で下に降りたようだ。しかし縦走路を予定していた私に、
それら装備品の準備はない。仕方なく滝を一辻回し、岩の方から降りることにした。
夏場でも荷物を背負ったまま岩場を下るのは難しい。ましてや足場は凍り付いている。平らな場所に細引き(やや細くて短いザイルの一種)を付けたザックを置き、どこから降りようかルートを探していたその時だ。
踏み出した足がズルッと滑り、そのまま3メートルほど下に転落、左足首をしこたま打ち付けてしまった。
「い、痛ぁ…」
すくまったままの姿勢で激痛をやり過ごそうとするが、一向に痛みは引かない。自分でも骨が折れたのがわかった。
「誰か助けてくれ〜」
声の限りに叫んだ。が、当然のように返事はない。厳冬期に沢を下るなど、よほどの酔狂者じゃない限り、
思いつかないものだ。とりあえず細引きが垂れ下がったところまでよじ登り、ザックを引きずり下ろした。今日はここにテントを張ろう。
幸い食料は余分がある。足の腫れさえ引けば下山も可能だろう。仕事も自営だし、少しぐらいスケジュールが延びても困りはしない。そもそも冬山登山にアクシデントはつきものだ。下山したら仲間に面白おかしぐ話してやればいい。
私はまだ事態を楽観視していた。翌1月8日朝、起きてみれば足の腫れは引くどころか、さらに膨張していた。歩行はもちろん、靴さえ履けない。状態は9日になっても変わらなかった。
やたらタバコが吸いたくて仕方ない。さほどのへビースモーカーじゃないが、何とか気を紛らわしたかった。が、タバコは遠に切れていた。続いてカイロが尽きた。そこで、コンロのガスは非常用に確保し、要らない荷物を順番に燃やしていくことに。
カメラの説明書、案内所でもらったパンフレットに食料の空箱。足を引きずりながら、枯れ枝を探し焚き火にする。その3日後、食料がなくなった。
いくら待っても通りかかる人もなく、さすがに危機感がせり上がってくる。
《体力があるうちに何とかしないと本当にヤバイぞ》
痛みはあるが、なんとか登山靴に入るまで腫れは引いている。歩いて山を下るしか生き延びる方法はなさそうだ。
広河原小屋までは1キロもない。このまま下れば着くだろう。例え無人でも小屋には非常食が置いてあるはずだし、運がよけりやシヶモクが吸えるかも…。

自力下山を決断した私は、広河原小屋を目指して歩き始めた。
いや、歩くというより這うと言った方がいいだろう。右手にピッケル、左手にナイフを持ち、雪と氷の斜面を滑落しないようソロソロと進んだ。
しかし、死に物狂いで手と足を動かしているのに、1日かかっても移動できる距離はほんの200メートルほどでしかないともすれば弱気になる自分を、

「こんなところでくたばってたまるか。大丈夫、大丈夫」と励ました。
腹が減ったら雪を頬張り、のどの
渇きは氷で潤す。この1週間で、目
に見えてやせたのがわかる。山を下
りたら真っ先に何を食うか、頭に浮
かんでくるのは食べ物のことばかりだ。
「間違いなく遭難です。万一のご覚悟を…」
一方、予定の日時を過ぎても帰らないことを心配した私の親族は、阻日に
なって長野県書飯田署に届け出ていた。
「30日から入山した50才の男が帰らないんです。事故にでも遭ったんでしょうか?」
通常、入山時には『登山届』を出す決まりだが、私はそれを出していなかった。そのためよほど経験のない人間と思われたのだろう。警察は
「間違いなく遭難」と判断、万一に備え、親族に現地へ来てほしいと要請を出していた。
離婚した妻と子供たちも長野入りし、朝から県警のへリコプターが出動、本格的に捜索が開始された。しかしヘリは私を発見できない。
「8日の強い寒波の影響で断続的に降雪がありましたので、雪に埋まってる可能性もあります。となると春まで発見できないかもしれません」
「そんな…」
「それでなくとも山頂付近は氷点下別度近くまで冷えこみます。万一の覚悟を…」
親族たちはその後2日間の捜索で私が見つからなかったため、もはや死んだものと葬式の打ち合わせまで始めた.
そういえば移動を始めた日、広河原小屋付近でヘリが旋回しているのが見えた。そのときは自分を探しているとは思いもせず、手も振らなければ助けも求めなかった。こっち
はこっちで悪戦苦闘していたのだ。
なんせ、左足が自由にならず1キロ足らずの道が想像以上に遠い。途中、3メートルほど滑落すること6回、ゴロンゴロンと岩が崩れ落ちる地響きも聞いた。
歩き続けること4日間、ようやく目指す広河原小屋に辿り着いたのは
1月17日のことだ。
痛い足を引きずりながら小屋に入ると、真っ先に探したのはシケモクだ。
が、マナーがいいのか吸殻1本ない。
代わりに誰かが残したカロリーメイトー食分と封の開いた氷砂糖が1袋。天の助けと口に入れた私は、小屋の中で眠りについた。あなた鉦坐争だったの!
警察に電話しなさい
1月18日朝、荷物を小屋に残し、私は防寒具とサブザックだけの軽装で歩き始めた。
足場の悪い山道と違い、広河原小屋から湯折までは林道で5時間のコースだ。いくらなんでも夕方までには着けるだろう。
が、左足の痛みが私の読みを狂わせる。少しでも地面に着こうものなら激痛が走るのだ。自然、ペースダウンし、陽が落ちてもまだ行程半ばにいた。
今度はテントもない。横になれば凍死しちまう。せっかくここまで来たのに…。
気力を振り絞り、夜露や風をしのげる洞窟を見つけ仮眠を取った。後悔してもしきれないのは、当日中に下山できるものと、小屋に角砂糖も置いてきてしまったことだ。
雪が降り始め、早々に野営を決め込んだ。入山して丸3
週間。この10日は、まともな食事も取っておらず体力、気力とも限界に近い。車を置いた湯折までは、普通、1時間もかからない場所まで来てるのに、もしかしてこのまま死んでしまうのか。穴の中で目を閉じると、気持ちは落ち込むばかりだ。
1月20日、目を覚ますと雪は止んでいた。気は焦っても、左足がついてこない。あと1歩、もう1歩とダマしながら、新雪の積もった真っ平らな林道をただひたすら進む。と、昼が過ぎた頃、ついに駐車場が見えてきた。何より嬉しかったのは、
タバコの自動販売機があったことだ。
喜び勇んで自販機に辿り着くと、
売店のオバチャンが私を見るなり声を上げた。
「あなた、ひょっとして岩本さんじゃないの?」
「はい」
「警察が探してましたよ。すぐ電話してください」
そこで初めて自分が捜索対象となっており、親族が死体確認のため現地に来ていたことを知った。
警察に連絡すると「よくご無事でl」
と驚かれ、報告書作成のため、署に来てほしいというcすぐさま車に飛び乗り、右足だけでオートマチック車を運転し飯田署へ。その途中、コンビニで、おでんを買った。世の中にこんなウマイものがあったのか。
「どこで遭難して、どういうルートで帰ってきたんですか」
「それは何日ですか?」
「じゃあ、15日はどうされてたんですか?」
警察では『遭難中」のことをアレコレ聞かれたが、うまく説明できない。骨折してからは時間の流れの外におり、日にちの感覚などなかった。
「ご迷惑をかけました…」
書察から解放された後、新聞記者に囲まれ、やっと家に着いたのは、夜9時を過ぎていた。

『氷点下20度、厳冬の南アルプスから奇跡の生還」
翌日の新聞は、私のことをそう書き立てた。が、遭難は、写真器材を重視して冬山装備の常識であるザイルとハーケンを持参しなかったこと。
登山届を出さなかったことが大きな原因だ。つまり自業自得だったのだ。
もっと天候が荒れたら、両足を骨折したら、落石に当たっていたら、私は確実に死んでいただろう。