早漏、包茎、短足。
いつの時代も、男は過酷なコンプレックスと隣り合わせに生きている。そのなかでもとりわけ厄介な存在は、ハゲ。
荒野の広がった前頭部と頭頂部。
5年ほど前から急速に進むこの砂漠化に対し、何ら有効打を持たないオレは、これまで、ただ屈辱の日々を送ってきた。
「毛を全部剃つちまえば?」と心無い同僚の軽口。
「ドビン・チャビン・ハゲチャビン」と高笑いする甥っ子ども。我ながら情けないが、
その度にナイフで心臓をえぐられるような痛みを味わってきた。
なんでハゲというだけでバカにされるのか。そもそも、なぜハゲには特効薬がないんだ。早漏なら酒で多少は解消できるし、包茎には手術、短足にはシークレットブーッという心強い味方がある。
が、いったんハゲれぱ為す術ナシ。
養毛剤は気休めにもならず、かといってカッラを装着する勇気もない。
そんな状況に終止符を打つべく、ついにオレは立ち上がった。他でもない、自毛移植手術だ
この手術。後頭部に残る自分の毛根細胞の株を刈り取り、ハゲた部分に植えていくというかなり強引な手法で、正直、不安な報告例も少なくない。果たして術後は、本当にフサフサになれるのか。
職場にはスンナリ復帰できるか。田舎の親には何と言われるだろう
色々と不安は尽きないが、36才となった今、もはや跨跨しているヒマはない。
さらにオレには究極の目標がある。植毛で失った自信を取り戻し、何がなんでも再婚を成就させるのだ。
オレは北海道の札幌に農家の3男として生まれた。父母の親戚を見渡してみれば、一族郎党オールハゲ。歳の離れた兄貴2人もDNAが暴走、瞬時にテヵテヵという筋金入りの血統だ。
思い返してみれば、兄2人は大学時代から養毛剤特有の香りをプンさせていた。そんな環境のもと、オレもまたごく自然にハゲ対策を施してはきた。
中高時代の思春期はポウズ頭で頭皮を鍛え、ワカメと昆布を食べる日々。むろん、パーマや茶髪などの賛沢とはいっさい無縁だ。
そんな努力が報われたのか。都内の私大を卒業、某新聞社に入社した当時、オレの頭髪はむしろ多い部類だった。
夜討ち朝駆けでサッ回りに精を出し、ヒマを見つけては合コンに参加。女性をガンガンロ説けるような性格ではないが、新聞記者という肩書きに助けられ、それなりに遊んだと言っていいだろう。
しかし、ほどなくして迎えたオウムサリン事件で多忙を極めると、一気にストレスが溜まり、酒にタバコと生活は乱れまくる。
結婚したのはちょうどその頃だ。
相手は知人の紹介で知りあった多摩地区出身のOL。見た目はまあまあだが、育ちのよい上品な子で、正直、オレにはもったいない相手だった。
「事態がひっ迫する前に勝負を決めろ!」
禿げ家系に生まれた男特有の思考のまま、知りあってわずか半年でゴールイン。それがよもや不幸の始まりだったとは、有頂天のオレに気付く由もない。
結婚生活3年目、突然、妻がパチンコで300万の借金を背負い、さらには新興宗教にのめりこんだ。
マジメな女性が、なぜそんな破滅的な動きに?
結婚を機に報道の最前線から本社の内勤に退き、家庭を大事にしてきたのにどうして?
妻を何度も問い詰めたが一向に要領を得ない。真相は未だ謎のままだ。
結局、妻に裏切られたショックに打ち克てず、家裁調停のもと協議離婚が成立した。
子供がいなかったのがせめてもの救いだった。
話を頭髪に戻そう
離婚沙汰でゴタゴタしていた頃のことだ。
記者仲間と全面鏡張りのスナックに入った途端、オレは心の底から驚きを覚えた。
普段は正面からしか窺い知ることのできなかった我が頭頂部が、シャンデリアに僅々と照されていた。カッパ?マジで、オレ?
カナヅチで殴られたような衝撃とはまさにこのこと。
「ついに来たか」と咳く兄たちの悪魔の微笑みが頭に浮かんできた。
その後の5年間は、まさに呪われた遺伝子との戦いの日々だった。
まず養毛剤。紫電改やペンタデカンなどの有名どころは当然として、ニュージーランドや韓国、カナダからも個人輸入で何種類も取り寄せた。1回7千円の育毛サロンにも足繁く通った。
が、ことごとく効果ゼロ。有名カッラメーカーの無料へアチェックにいたっては、数十万の高額商品を勧められるだけだった。
こうなったら、ポウズにしちまえ。ブルース・ウィルスみたいになれば、逆にカッコいいかもしれない。
勇気を奮いツルッル頭で出社すると、上司のキッイお叱りが待っていた。人相が悪いと罵られ、その言葉どおり、出張先のフィリピン入国審査ではヤクザと間違われ、足止めを喰らうハメに。…打つ手ナシ。
もはや完壁なハゲオャジと化した。
実家の近所のオバサンに、泣きたくなるようなあだ名を頂いた。
「あらあら、第三の太陽のお帰りだくさ」
「え、なにソレ?」
イギリス映画の名作「第3の男」と、アランドロン主演のフランス
映画「太陽がいっぱい」・兄2人に続き、太陽(ハゲ)と化した三男
のオレを映画のタイトルにひっかけたタチの悪いシャレである。
さらにお酒の席で同僚女性からキッーイお言葉が飛んできた。
「男は性格が一番だけど、それ以前に見た目も重要よ」
「::」
実は、その同僚、オレが秘かに好意を抱いていた女性である。その後2,3日、マジで食事が喉を通らなかった。
オレはKクリニックでカウンセリングを受けていた。
パンフレット片手にドクターは語る。
「ハゲは十中八九遺伝で決まります。特に前頭部から頭頂部にある毛髪は、男性ホルモンの影響で段々細くなっていくんですが、このホルモンというのが実に遺伝に左右されやすい。育毛剤や養毛剤を使っても克服できないレベルなんです」
「…はあ」
「前頭頂部に比べ、後頭部が男性ホルモンの影響を受けにくいのはご存知ですか?頭全体がハゲるのは珍しいですが、横や後ろに頭髪の残る人は多いですよね…」
ドクターは力強い言葉で続ける。髪の毛には、どの皮膚に植え代えても、本来の性質を保つ特性がある。
つまり、後頭部の毛をハゲた前頭部に持ってきても、そのまま新しい毛を生みだすことができるというワヶだ。
実際の育毛手術は、まず後頭部の髪の毛を幅1〜2センチ横一直線に切り取るところから始まる。ドナーという、そこにある毛母細胞を1000〜1500株ほどえぐり、ハゲ部分に1株ずつ植え込んでいくのだ。
「移植した部分は半年ほどたつと、接木のように自毛となって生まれ変わるんですよ。何度でも新たに生え続けますから。コレをご覧ください」
過去に手術を受けた患者数人の写真だった。
いずれも半年でフサフサ、1年後には完壁な別人となっている。
ただ、オレの場合、手術は一筋縄でいかない。前頭部と頭頂部のハゲ部分が広すぎるため、2回に分ける必要があるらしい。
料金は、税込み126万×2回で252万円。医療保険が効かないため、国産高級車が買えるほどの高額である。果たしてこんな大金を払ってまで、頭を切り刻む必要はあるのか。オレが立てた手術プランはざっと次のとおりである。
手術を受け、その日から1月6日まで約2週間の休暇をとる。植毛直後、患部はカサブタ状態。完治するにはそれくらいの期間が必要だ。
さて、いよいよ手術当日。午前6時に目覚め、洗面所に立った。今日がハゲ輪廻に終止符を打つ日かと思うと、鏡に向かってほくそ笑む自分がいる。
帽子を目深に被り、電車を乗り継ぎ病院に着いたのが、予定より早い朝8時。受付で手続きを済ませ、廊下のソファでドキドキしながら順番を待った。
「田中さん、コチラヘどうぞ」
訓分後、美人看護婦に案内されオペ室へ。中には担当医と4人の助手(看護婦)が立っていた。
「そんなに堅くならなくて平気ですから」
「は、はい」
「じゃあ、コレ飲んでください」
緊張緩和のための錠剤を渡され、椅子に。すかさず助手の1人がオレの頭に青いペンで何やら線を書きこむ。な、なんですか、コレ?
「毛を植えていく線ですよ」
「はあ」
何でも頭髪は毛先の生える方向が決まっているため、その特徴どおりに植えていかな
いと不自然な見栄えになるらしい。
午前9時半。オペ開始。割烹着のような手術着をかぶり、手術台へ。
〔心拍、血圧、呼吸状態〕を測るモニターを眺めながら、身体を刀ラックス状態に持っていく。
その間、右手の甲に麻酔の注射を2本打たれる。と、これが痛いの何の。ハゲ克服の道は真に苦行ナリ。
薬が効き始めたのだろう。身体がボーっと暖かくなった。夜中に突然目が醒め、しばらくしてからウトウト眠りにつくような感じ…。
ゴリゴリ、ゴリゴ
気が付けば、後頭部からドナー部分(毛母細胞の残った株)の切り取り作業が始まっていた。隙膿とした意識の中、我が身を傷つけることに少々後ろめたさを感じる。母ちゃん、ゴメン。
が、皮を剥ぐという荒療治を前にしても、麻酔のおかげで痛みや恐怖感はいっさいない。
午前中のオペは、呆気ないほど簡単に過ぎていった。
右耳から左耳へかけて刈り取ったドナーは、幅1センチの曲線を描いている。そこにビッシリ生えた、毛母細胞付きの髪の毛が1600株。午後はこれを1株ずつ植えていく。ちなみに、ドナー部の傷は一生残るが、髪に隠れて目立たないという。
正午。病院が用意してくれたトンカッ定食を平らげ、1時にオペ再開。眉間に麻酔注射を打ち、先ほど頭に記した青いライン通りに、毛を植えていく。
オレは、ただボーッとオペ室のTVで放映されていた「猿の惑星」
を眺めていればいいのだが、作業を担当する4人の看護婦さんが何とも心もとない。
チクッ
頭に針のささる感触が伝わってきた。毛母細胞付きの株は長さにして1センチ。これを1600本も皮膚に植え込むのだから、並大抵のショックではない。ただし、麻酔が完壁に効いていて、痛みはほとんどない。
「無事に終わりましたよ」
看護婦さんの声で時計を見れば、午後3時。ドクターチェックの後、患部を霧吹きで洗い流し、冷風ドライヤーで乾かす。
安堵の息を漏らしながら、鏡でニューヘアーを確認。と、前頭部が 田舎の中学生のように、1センチ程度の毛でビッシリだ。
おお。これが明日への第一歩なのか。
けど、それにしちゃ見栄えが 悪すぎない? 地肌は赤く腫れ、血液や体液のカサブタが1本1本根元にギュッと 詰まってる
「さらには、元々生えていた長い毛も残っているため、不 自然なことおびただしい。 帰路は帽子を被るとしても、当分、人には見せられない姿だ。
あー あ、こんなことなら、田舎に帰省するなんて言わなきゃよかった。
午後5時。ワンルームマンションのトビラを開け、寒々とした部屋 に石油ストーブの暖風を送り込む。足元に伝わる温もりが、極度の緊 張を解き放してくれる。 オレは生まれ変わったんだ。
今日からは安心して眠れ…なかった。
目も当てられないカサブタ頭。後頭部のドナー部分の傷口も不安で しょうがない。 縫合が開いたら最悪だ。首を動かすにも、鼻をかむにもいちいち気 を遺う。
なんせ、大きなオナラをするだけでズキズキ痛むのだ。 血液の流れが活発になると出lfllの怖れがあるため、運動もオナニー も禁止。移植した髪の毛が定着するのは2-3後だ。とりあえずは慎重にせねばならない。
深夜3時、毛布に身をくるみソファに横になった。これまでの36年間を回想しつつ、生まれ変わった自分を想像するオレ。フサフサのイ メージは、まだ湧いてこない。