女がー人、ただ麻雀を打ちたいがためにタイの山奥の村へ出かけて行った。
これからお届けするリポートは、簡単にいえばこのようなことになる。根っから麻雀好きの私にしたら、少し変わった体験をしてきましたぐらいのもんだ。が、世間はなかなかそうは見てくれない。例えば、このリポートを書かせてくれることになった裏モノJAPANの編集部によれば、私の発想、体験は相当フッ飛んでいるらしい。
なぜ麻雀のためにタイまで行かねばならぬのか。しかもあなたは女だ。恐いと思わないのか。いや、そもそも女でありながら、そこまで麻雀にハマるあなたっていったい何者なの?と、こういうわけだ。何者なの?と聞かれても私は単なる麻雀好きの女です、としか答えようがない。が、公の雑誌に載せる以上、それだけでは理解が得られないかもしれない。なぜ女の私が麻雀目的で、単身タイに乗り込むことになったのか。まずは、その辺りからお話しよう。
麻雀を覚えたのは某大学院で哲学を専攻し、将来は学者にでもなろうかと考えていた24才のときである。同居していた男に教えてもらったのがきっかけで、周りの人間とやりだしたらこれが面白くて仕方ない。世のなかに、こんな魅力的な遊びがあったのかってなもんだ。とにかく打ちたくて打ちたくてたまらない。毎日でもいいから牌を触っていたい。そんな私が「ここなら願いが叶うかも」と見つけた先はフリー雀荘(『おー人様で遊べます』と看板に出ている店)のアルバイトだった。
今にして思えば、かなり突飛な行動ではある。麻雀を覚えたての人聞が、いきなり雀荘で働く(つまり客を相手に金を賭けて打つ)なんて、ボラれに行くようなもの。今でこそ「ギャル雀」などといって若い女のコがメンバーが働く店も少なくないが、雀荘で女性従業員といえば店番のおばちゃんぐらい。女子大生などまずー人もいなかったに違いない。が、当時の私はそんなこともあんなことも、まるでわかっていなかった。牌の近くにいられる仕事なら。それだけだった。
面接で「女性の方はちょっと」と断られ続けること数軒、ようやくある雀荘で採用となった。といっても、最初はお茶くみ、掃除などの雑用ばかり。まあ、ろくろく点数計算もできなかったのだからそれも仕方がない。時給800円で夜10時から朝10時までの12時間労働(休みは週ー)。拘束時間が長いだけの仕事にも思えたが、単なるお茶くみからメンバーとして卓に入るようになると、もう必死。なんせ、ゲーム代から負け分かりすべて自腹を切らなければならないのだ。
どうだろう、最初のころは月に250半荘ほど打って毎月10万ぐらい負けていたんじゃなかろうか。正直シャレにならん。が、それでもまだ打ち足りず、休みの日にはわざわざ別の雀荘にフリーの客として打ちに行っていた私。もはや麻雀なしではー日たりとも暮らせなくなっていた。そんな生活をー年。ようやくゲーム代ぐらいは勝てるようになったころ、私は雀荘を辞め、3カ月間、山来にバックパッカー旅行に出かけた。先のことは何も考えていない。
ところが、旅行から戻ってみたら大変なことになっていた。大学の籍が抹消されていたのだ。困った。いや、正直いうとそんな困っちゃいない。私はもう大学のことなどどうでもよくなっていた。麻雀で食っていけばいいではないか。好きな仕事で暮らすのがいちばん幸せではないか。
私の人生は、こうして決まったようなものである。その後のことはキリがない。大学の籍が無くなった後、すぐに勤めた全自動雀卓製造メー力ー(設計希望だったが電話番に回され半年で退社)、麻雀教室の講師(ほとんど仕事なし)、麻雀プ口(これまたほとんど仕事なし。金を払って試験を受けたらたいてい資格が取れる)、麻雀博物館のスタッフとにかく頭に「麻雀がつくものを生業として暮らしてきた。そしてお金ができたらリュックを背に、バックパッカーの旅へ出る。その繰り返しで7年になる。
ことばも通じなければルールも知らぬ
バックパッカー仲間のー人から、タイで麻雀をやっている人を見かけた、と教えられたのは今年ー月下旬のことだ。何でもー年ほど前、タイ北部のメーサロンという山村にいたときのこと、ー軒の民家から牌をかき混ぜる意が聞こえ、覗いてみたところ、身なりのいい中国系の男性が卓を囲んでいたという。
しかも、知人が言うには、彼ら、卓の引き出しに札を入れ、誰かがアガるたびにお金をやり取りしていたらしい。博打御法度のタイで、秘かに賭け麻雀。身なりのいい中国系ということは、メンツは華僑…。ソソられる。これがソソられずにいりれましょうか。ねえ皆さん。
と、同意を求めたところで、理解してもらえないことはよーくわかってる。が、もともと私という女は思いついたら動かずにはいりれない人間。それが元で痛い目に遭ったことも数知れずだが、こればっかりは性格だから仕方がない。私は知人の話を聞いてすぐ、タイに出かけてみようと心に決めた。幸い急ぎの仕事もない。といっかス女ンュールは真っ白である。私かタイに麻雀を打ちに行ったところで、誰も困りはしない。問題は金だな、やっばり。往復の交通費で約5万。あとは格安ゲストハウスでー週間滞在したとして3万もあれば十分。計8万か。何とかなりそうだ
本来なら借金の返済に充てるべき金だが、そんなことは知らん。とりあえず、いま旅に出られるだけの金があることが重要だ。となれば、残る問題は何だ。まず、現地に行くはいいが果たして麻雀をやっているのか、やっていたとして日本から来たこの私ができるのか。これは難間である。むろん、行くべき場所は知人が見かけたというメーサロンだ。
そこで現地の人に聞くなり、場Aロによっちゃー軒ー軒を訪ね歩けばいい。だが、知人が現場を目撃したのはー無則。いま現在もそこで麻雀が行われている保証はない。やってなかったら・・
まあ、そのときはそのときか。麻雀に参加できるか、といっ間題についても今の段階じゃよくわからん。まったく相手にされないといっ可能性も大だろう。が、ガイトブックによれば、メーサロンという町は、キレイな民族衣装を着けた山岳少数民族が右往左往する、そこそこの観光地らしい。日本かりはるばる麻雀を打ちに来たと言えば、どうぞどうぞと歓迎してくれるかもしれない。うん、ここは楽観的に考えよう。
待てよ、ルールはどうなんだ。これがわからないのは、打つにしても大きなハンディだ。まあ、フリテンやらー役ないとアガれないやら、そういったシバリはないだろう。こういうのは日本独自のルールだし。ドラはどうだろう。役も問題だ。三色がないかも知れない。
今年2月。バンコクから北へ800キ口のタイ北部の山奥。私は舗装された道路を一路、メーサロンを目指してスクーターを走らせていた。成田空港かり7時間かけてバンコクに着いたのが2日前。空港から電車に一晩揺られ、まずはチェンマイへ。次にバスに乗り換え、チェンライへ向けて4時間。そこかりスクーターで3時間ほど走って、やっと目的地のメーサロンだ。遠い。遠すぎる。やっばり止めようか。思いつきだけで女ー人、タイの山村に乗り込むなんてムチャだもんな……なんてことは微塵も考えなかった。行ってみるまでどんな場所なのかよくわからん、が外国旅行の醍醐味ではないか。蚕女どころか、私は期待に胸を膨らませ、出発日を心待ちにした。
まず、薄暗く空っぽの部屋が現れた。麻雀はその奥の更に隣の部屋で行われているようで、そこから音が漏れている。実にアヤシげな中に恐くなってきた。事態が頭に浮かぶ。打っているのは現地のマフィアで、いきなり飛び込んだ私に、容赦なく銃をぶっ放して…。
繰り返すか、タイにおいて賭事は非合法行為なのである。そこで、声を出した。
「お邪魔しまーす」何語でもいいからとにかく明るく声をかけ、こちらに璽思がないことを示すのが先決だろう。それにそもそも他人様のお宅に上がり込むのだから「お邪魔します」が妥当ではないか。果たして、返事はなかった。
麻雀の意も変わりなく続いている。どうしよう。思い切って奥までお邪魔するか。いや、でもなあ。迷いに迷っていたそのとき、麻雀部屋かり人影が現れた。ヤバッーと思いきや、出てきたのは20才前後の娘さん。拍子抜けする私に、にこにこ笑顔だ。途端に肩の力が抜ける。
「マージャン?」思い切り友好的な笑顔で話しかけた。と、娘さんは嬉しそうに大きく領き、中へ入れと手招きする。よし、これで第一関門突破だ。中へ入ると、そこは8畳もない殺風旦泉な部屋だった。真ん中に卓が置かれ、4人の男が麻雀を打っている。銃は持ってない。格好もご<ごく並通。彼らが華僑かどうかはわからないか、とりあえず危険はなさそうだ。娘さんが彼らに向かい何やら話しかけると、そのなかのー人が顔を上げ、ニカッと笑ってみせた。いささか引きつりながら微笑みを返す私。友好的ムード。
あるベッドに寝転がっていた老人かりだ。ここに座れといってるらしい。は、はい。素直に従うしかない。
「※※?×■・××△・・」老人が、卓を指しながら何やら話す。おそらく、私にここでの麻雀を解説してくれているんだろう。むろん、何もわからない。ご好意はありがたく成謝するとして、私は私でしっかり観察させてもらおう。
卓上に飛び交う札。レートは日本の3倍
まず目に付いたのは、日本の麻雀牌よりー回りデカイ牌を使用していること。そして手牌が16枚あることだ(日本の麻雀は13枚)。その分、麻雀卓も日本のそれよりサイズが大きい。見た感じ、リーチ、トラ、フリテンの類はなさそうだ。手役もー役作る必要はないようで、みんな果敢にアガリに向け仕掛けていく。「ポン」は「ポン」、「カン」は「カン」。「チー」や「口ン」「ツモ」については特にないようだ。
私に麻雀を打たせてくれるってこと?
いきなりの展開にドギマギしつつ席に座ると、いきなり親番でサイコロを3個振らされた。抜けたボロシャツが丸椅子を持って私の隣に座り、配牌を取ってくれる。コーチ役ってことか。そこそこの配牌をもらったので手を進めた。どんな手だったかは忘れたが、早く仕掛けてアガり切った。が、何も起こらない。えーと、お金は・・
再びサイコ口を振り、またも私がアガる。が、IJこでも何も起こらない。どういうこと7あるのかないのかわからない次の2本場で、私は南家にフリ込んだ。と、そこでやっとお金が出てきた。10バーツ、100バーツ、500バーツ札もある。いや、ちょっと、どういうことなんすか?
「▲j×国国〇〇※×」コーチが立ち上がり、早口で何やら話したかと思うと、500バーツにつりを出し、南家を指差し札を渡す。そして残りを私の引き出しの箱の中へ。
どうやら、メーサロンで私が理解したー回のアガリごとの精算ではなく、親が落ちたところでまとめて精算しているらしい。まったく、そんなことされたら点数がわからなくなるではないか。とにもかくにも親は流れ、私はマコマコしながらも打ち続けた。点数など皆目わかりないが、それでも打ち続けた。
そして、私はしだいに、ある重要な事柄に気づく。この麻雀ではツモでも口ンでも同じ額のお金をやり取りする。例えば100バーツの手を口ンで上がれば100バーツ、ツモでア力れば3人からもらえて300バーツになる。ツモったら3倍。ならば自ずと答は出たようなもんだ。フリコミを恐れてオリている場合じゃない。要は単純なアガリ競争。とにかく一刻も早くテンパイを入れ、ツモ上がりを目指す。これが勝利へのセオリーってもんだろう。しかし、ククク…。と、私は笑ってしまう。他の3人さん、どうも慎重なのであるというか、彼ら、かなりの頻度でオリてます。オリちゃいけないのにオリてます。
私は心の中で叫んだ。
オドレらに実力の差っちンを見せつけたるわっー
アガりまくって3時間。まるで徹マン明け状態だ勝ち方を悟った私は、いこんな手を上がった。だいたいマンガンガリだろう。手牌が16枚もに鳴いていないのだから。3人はニコニコしながら声をかけてくる。意味はわいが、こんなことを言って違いない。
「女はコレだからな」「なんでそんな腐れシャン待ちに負けるんだ」
笑っていない目を見ればぐらいはわかる。ことばの日本の女だからってナメち次局では、上家の身なりお父さんに岡をフリこんだ開いたら花牌が3枚。もうツョ過ぎーとお父さんの肩を叩いた。なーに、ほんの社交辞令。心の中では、「見とけ」とメラメラ炎が燃えている。きっちり次の局はアガリ返した。
そして次も、そのまた次の局も私のアガリ。勝ちパターンを知ったこともそうだが、実力的にも私の方が勝っているのは明らかだ。だんだん点数もわかってきた。とにかくア力れば100バーツ、これに花牌と字牌がー個につき20バーツずつ加算され、平均的なアガリは百数十バーツ。メーサロンのレートよりは良心的だろう。誰かの親が落ちた。またお金のやり取りがあって、次に場替え。半荘戦、一荘戦なのかもよくわからない。わかるのは自分が親か否かだけ。目が回りそうだ。
さっきまで下家にいた主婦が、部屋にいる全員にご飯を持ってきた。私にも食べなさい食べなさいとニコニコしている。残しちゃ悪いと思ったが、あまり入らない。みんなはガツガツかっ込んでる。さらに打ってアガって、打ってアガって、私の引き出しはお札であふれそうになった。
が、その後、下家の小男が長いこと連荘し、かなり減少。それでも、ダントツであることに変わりはない。楽しい。実に楽しい。しかし、「方でこの疲れようは何だ。まだわずか3、4時間しか打ってないのに、徹マン明けさながらのへロへロ状態だ。私は帰途の旨を表明した。と、みんなが近くにも宿があるからと引き留めてくる。なんだ、何を企んでいる。私が勝ったといってもたかが1500バーツ弱じゃないか。日本のフリー雀荘なら、続けるもヤメるも目由だぞ。丁寧に礼を言い、席を立つ。
「※★▲△×0」見送りに来たコーチが、私にことばをかけてくれた。
「再見(ツァイチェン)」というほど熱心ではないが、そうかと言って「二度と来んなよ」でもない。妙にさばさばした顔が心に残った。スクーターに乗り、またえんえんと続くアスファルトの道を戻る。裸足でその上を歩く子供、人を20人ほど乗せたトラック。日暮れ時にそんな光景が見ながら、私はチェンライへと帰って行った。