会話のタネ!雑学トリビア

裏モノJAPAN監修・会話のネタに雑学や豆知識や無駄な知識を集めました

女子少年院で過ごした厳しい生活とマウンティングの世界

突然変異というのかどうか、家系のどこを見渡してもデキの悪いのは自分だけ、という状況はずいぶん辛いものがある。

やれあんたはグズだ、やれだらしないと、幼いころから毎日毎日小言を聞かされればノイローゼにもなるってもんで、中学に入るころ、私は真面目に家出を考えるようになった。とはいえ、家を出てどこへ行こうかと考えたところでいつも計画は頓挫し、うるさい親の元にずるずる住み続けるハメに。いつかきっとと、デキの悪い頭を振り絞る13才だった。

チャンスは突然やってきた。パーティでつながった、川崎で一人暮らしをしている19才の男が「家出するならウチに来いよ」と、声をかけてくれたのだ。名古屋から川崎。家出にしては遠すぎる気もしないではなかったが、私はなけなしの小遣いで新幹線の切符を買い、彼の元へ。当然ヤラれないわけがなく、中1で処女喪失と相成る。痛くもなければ気持ち良くもない初体験だった。今にして思えば、彼はただヤリたかっただけなのかもしれない。けれど私にしてみればそんなことはどうでもよく、とりあえず体を自由に使わせてあげるだけで実家以外の住処に居続けられるというのは、ラッキー以外の何物でもなかった。

ところがしばらくするうちに彼が、ウチにいていいから1日2万円払え、と言い出す。あまりに理不尽なその要求、他に行くあてもなく、しかも彼にホレてしまっていた私は、いさぎよくうけ入れるべきだと考えた。1日2万円、毎朝新聞配達でもすりゃそれぐらいもらえるんかいな、なんてアホな考えで電話をしてみるも、13才というだけでどこも相手にしてくれない。他にバイトなんて思い浮かばない私は、泣く泣彼に相談した。すると彼は

「テレクラに電話して、親父に買われればいいだろ」

何いっとんねんと反発するべきだった。しかし処女喪失にすらいっさいの感慨もなかった私は、セックスが重大なものとも思えず、体を売ることに罪悪感や嫌悪感はこれっぽっちもない。毎日売春し、家賃を納めての家出生活。なんか割に合わんなあとは思ったけれど、実際やってみるとそれはそれで気楽なもんだった。しかし、そんな生活も長くは続かない。いつものように売春を終えて新宿・歌舞伎町のラブホテル街を歩いているとき、警察に呼び止められてしまう。化粧も何もしていない中学生なんて、どこからどう見てもガキそのもの。油断してそんなとこをブラブラしている私が悪かった。

名前や年齢などしつこく聞かれた私は、彼の存在以外はすべて正直に答え、売春していたことも素直に白状した。もちろん13才が売春してれば注意だけで済むはずがなく、警官に連れ添われて名古屋へ強制送還。親やバアちゃんにこっぴどく叱られた。アホめ、お前らが口うるさいから出て行ったんじゃ。と言いたかったが、黙っといた。

いくら叱られようが、反省なんてするわけがないから、すぐに私は彼の元へ舞い戻る。前回の失敗を踏まえ、今度は18才と偽ってピンサロで働くことにしたりところがやっぱり顔が幼いのか、面接先のピンサロ店長が警察に通報、またしても名古屋に連れ戻される。今度は家族も見放した。

「あんたなんかもういらんわ」と捨て台詞をはぐ親の姿を見て、保護所の先生は私を、愛知県春日井市の「愛知学園」という教護院(義務教育中の不良少年少女を更正する協護)へ連れて行く。授業と体育の日々。まあこんな生活も悪くないかと思ったが、剣道の時間に強引に袴を脱がせるエロ先生が気に食わず塀を乗り越えて脱走。やめときゃいいのに、ここでまたまた川崎の彼に会いに行くから話はこじれる。売春に却えてシンナーを掌えさせられ、ヤケクソ気味になったところで警察に御用。
名古屋の千種にある鑑別所に送られた。今度はいわゆる鉄格子の中。拘置所のようなもんだ。ひと月ばかしの鑑別所生活を終えてようやく審判。当日は教護院のエロ先生が現れ、「今ならまだ教護院に戻れるから」と反省を促してきたが、あんなところに戻るのはもっ御免。少年院のほうがまだマシだ。てことは、裁判官の心証を悪くしたほうがいいわけだ。

「なんで売春したらアカンのや」「少年院でもどこでも行ったるわ」審判の途中、何度も私はわめき倒した。反省の色なし。これで教護院に戻る可能性は消えた。よしよし、これでいい。少年院ったって、どうせ短期処遇に決まってるのだ。裁判長の判決が下される。

「少年院処遇」ほい来た。さあ、次の言葉を言え、短期だろ、短期。しかし、なかなか短期の一言が出てこない。判決1初等少年院長期(送致先は大阪の「交野女子学院」。
まさか1年も。そんなに大阪にいたら彼に忘れられてまうやんか。恋の終わりを嘆く14才の春だった。
彼のこと書けないなら何を反省するの?
「やっぱり、イジメとかあるんですか」「静かにしなさい」

「テレビで見るような感じなんですか」「もっ、黙ってなさい」5月の半ば、腰紐と手錠をつけられた情けない格好の私は、交野少年院から迎えに来た2人の先生に率いられ、電車に乗って大阪へ向かった。道中、さすがに不安になって質間を繰り返すが、何を尋ねても答は返ってこない。山と田んぽと工場しか見えない、とんでもないド田舎にある少年院に着いたときは、すでに夜になっていた。

学校のようなつくりの建物に入り、制服のジャージとパジャマ、洗面用具を受け取って「1寮」と呼ばれる個室へ。鉄の扉の向こうは、机と椅子、洗面台、トイレ。隅のほうに1枚だけ敷かれた畳の上に、オレンジと緑のシマシマ模様という気色悪いデザインの布団が置いてある。とりあえずは寝るしかない。

どういうわけかどんな環境でも熟睡できるのが、私の不思議なところだった。翌朝、教官の「食事ですよー」の一声で目が覚めた。扉横の小さな食器口から、麦飯、味噌汁、きなこの3品が出てくる。ん、きなこ?きなこがオカズ?ナメとんのかい。モチぐらい入れろ。こんなもん食えるかと、そのまま食器口に戻す。と

「おらー、お前は感謝の気持ちがないんか」チビりそうになった私は、あわててきなこを口の中に。こりや、とんでもないとこだ。食後は強制的に作文を書かされ、それ以外の時間は畳の上で壁を向いて正座し、自らの過ちを反省するよう求められた。作文のテーマは「なぜここに来ることになったのか、ここでどう暮らしていくつもりか」。そんなこといわれても、私にはよくわからん。
どう考えたって、いちばん悪いのは売春を強制させていた川崎の彼で、どちらかといえば私は被害者みたいなもんだ。第一、稼いだお金は全部彼の手に渡っていたのだ。なんで、それなのに私がきなこメシなんか。

しかしそんなこと書いたら、彼が捕まってしまう。やはり初体験の相手というのはデカイ。この期に及んでもまだまだホレていた私は、あの男だけは守ってやろうと決めていたのだった。となると何を反省していいのやら。個室での1週問の反省生活を終えた朝、男の教官が部屋にやってきて、荷物をまとめる。

ピンク色の丸いバッジを渡され、パジャマや洗面用具をワゴンに積む。2人してガラガラと廊下を歩き、「4寮」と呼ばれる長期処遇者の寮へ。いよいよこれからがドラマで見るリンチやイジメの世界なのだろうか。

ドナドナドーナ、ドーナー売られる仔牛の気分。なんか怖いなあ。
集団生活の4寮は当然のことながら1寮よりも広く、大きな部屋が全部で3室。その中の1室に私は通された。中にいたのは5人の女のコだった。怖そうな人はいないけれど、リンチは勘弁とばかりに、正座して挨拶をする。

「初めまして、吉原です。よろしくお願いします」すかさず、中の1人が話しかけてきた。

「何して入ったん?」

「売春です。」

「ふーん、一緒やな」

いきなり殴られるかと思っていた私は、このやり取りでだいぶ気が楽になる。ゆつくりする間もなくすぐに点呼がかかり、4寮の全員が廊下に整列。私と、同じ日に入寮した西木さんの2人が前に出され、挨拶の後、皆の自己紹介を受けた。4寮は3室合わせて17人。

そのほとんどが16才だった。胸に付けられたバッジの色がそれぞれ違うのは、級の違いを表していて、最初はピンク、本人の努力が認められると、徐々に、黄、青、緑と変わっていく仕組みらしい。見れば確かに、緑や青のコはどこか落ち着いている。点呼が終われば、隣の大部屋で食事。最初に話しかけてきたコ、緑バッジの今井さんが寄ってきた。

「あんた、妹によう似てんな。でも表情が乏しいわ」

余計なお世話だとも思ったが、彼女は部屋の中で、最年長かつ最美人かつ唯一の緑バッジとして一目置かれていた存在。その彼女と最初に仲良くなったおかげで、私はイジメに遭うことなく、仲間入りを果たすことができたのだった。今井さんと同じく売春の、奥西さん(ピンクバッジ)、シャブの吉野さん(黄)と松本さん(青)、そして暴走、シンナーの奈々さん〈青)。同部屋6人の共同生活が始まった。
テレビなどで見聞きしていたのと同じように、院での生活は単調
極まりないものだった。朝は6時半に起床。ベルの代わりに、スピーカーからレベッカの「フレンズ」、プリプリの「パパ」、平松愛里の「部屋とYシャツと墾の3曲が立て続けに流れ、すべてが終わるまでに着替えを済ませ、布団をピシッとたたんで点呼に備えなければならない。低血圧気味の私は、フレンズが終わってもまだ起きれず、パパのころにようやく着替え始めるのがやっとだったので、いつも点呼に間に合わず、ドツかれまくった。占呼が終われば洗面。髪の長いコはここでー二つ編みに縛る。ポニーテールは禁止だ。その後食車妻し、灰色ジャージから外出用の青いジャージに着替えて出寮。園芸や家庭科の作業、体育などをタラタラと行う。

いわれたことをただやるだけなので、まあラクといえばラクだ。ただし、私を含む3人の中学生は「学科生」と呼ばれ、農作業を途中でやめて部屋まで行進し、毎日学科授業を受けることになっていた。この授業でやらされるのが、小学3年生のドリル。あまりの出ない割り算なんかを黙々とこなすという低レベルなものだ。

しかし、ナメとんのかと思っているのは私だけで、後の2人は九九どころか二桁の足し算さえできない。外界ではデキが悪いとさんざん罵られてきた私も、ここでは優等生。「天才」と呼ばれ、ちょっとした優越感にひたることができた。ひととおりの作業が終わればタ食を済まし、申し訳程度のレクリエーション時間にテレビを見た後、就寝。予期していたとはいえ、あまりの退屈さに、入寮3日にして嫌気がさし始めていた。

そんな私が初めて、女だらけで生活することの意味を知ったのは、4寮に入って1週間ほど経った日の夜のことだった。その日の夜、消灯時間を過ぎ、深夜1時の最終見回りが終わっても、私はなかなか寝付かれずにいた。部屋中のあちこちからウンウンと小さな声が聞こえてくるせいだ。

最初、奈々さんが、うなりだしたときは、生理でお腹でも痛いのかと思っていた。ところが、うめき声は今井さんゃ松本さんにも伝波する。食中毒?私はなんともないのに。それがオナニーだとわかったのは、端息持ちの奥西さんがピーピーと鳥のような声を出したときだった。見ると、布団をまくりあげ、全裸になってアソコをイジっている。しかも乳首には洗濯バサミが。あわわ。

「うるさい、このブス」「鼻息荒いんじゃ」

布団の中でモゾモゾしていたみんなが、いきなり奥西さんに怒声を浴びせる。当然だ。ただでさえ端息交じりの特徴的なうめき声、こんなに派手に乱れられてはたまったもんじゃない。それでも奥西さんはメゲずにオナるオナる。結局、30分近くピーピーとうめき続けた。後に私は、彼女に「オナニー奥西」というストレートなあだ名がついていることを知った。

ちなみに売春なんぞしておきながら言うのもなんだけど、私はまだイクということを知らず、乳首とアソコを触るとなんとなく気持ちいいなぐらいの感覚しかなかったので、オナニーもこそこそっと触るだけでおしまい。チンチンを入れないと処女膜がまた復活するんじゃないかと悩んだりした。まだまだ純情な14才、ってか。オナニー合戦があればレズの1つや2つぐらいありそうなものだが、そういう場面に出くわすことはなかった。

ただその代わりにラブレターの交換は盛んで、私もずいぶん攻撃を受けた。毎月決まった量しか支給されない貴重なティッシュに、ボールペンで書いた恋文を手渡してくるのだ。「あなたを見てると、体が火照って眠れません」

「夜8時、トイレの洗面所に来てください」火照るなんて言われても、どうしていいものか。毎度断りの口実を考え出すのが厄介だった。
オナニー奥西のアエギ声とラブレターティッシュにくわえて私をうんざりさせるのは、週3回のお風呂の時間だった。支給量の決まっているシャンプーやリンスの奪い合いはともかく、お互いの体を眺めてはあれこれ批評し合っのが苦痛でならないのだ。あのコはデブだ、胸が小さい、ウエストは細いけど足が太い、などなど。

まあ、女性ばかりの寮というのは少年院に限らずこんなもんだろうし、特別醜い体型でもなかった私はその手の標的になることはなかったのだが、少年院での批評は体型だけにとどまらないところが問題だった。ここでは乳首やアソコの色がピンクだと小馬鹿にされ、黒ければ黒いほど偉いとされるのだ。

私はこの独特の価値観の餌食にされた。「あんた、まだピンクやん」

「あんまり吸われてないやろ。吸ったろか」もう何人にも吸われてきたはずなのに、まだわずかに赤みがかった乳首の私はガキ扱い。もちろんアソコも覗き込まれる。どんな色かなんて意識したことはなかったけれど、

「ホンマに売春してたんか」という色らしい。単に個人差なんとちゃうんかと言い返そうにも、現に遊んでいたらしきコの乳首はやっぱり黒く、私は黙り込むしかなかった。ワキ毛もいつものことだった。

いつ傷害沙汰になるかわからないため、普段女のコたちは剃刀を持たされておらず、ムダ毛の処理は月に1度のみ。ということは、人によってはボーボーの生え放題にもなるわけで、入浴時にさんざんからかわれることになる。

ただ、実際に胸を吸われたりワキ毛を引っこ抜かれたりすることはなかった。女のコ同士が少しでも接触すると、見張っている女教官がピーッと笛を吹いて、離れるよう注意するからだ。それにしてもなんで風呂のときだけあんなにチェックが厳しかったのかは、いまだに謎だ。やっぱり裸で欲情することを恐れてたのか。
売春していた当時はやせ細っていた私も、少年院に入ってからはどんどん健康体になっていくのがわかった。規則正しい生活と適度な労働。これでおなかが空かないわけがない。食べれば、自然と太る42キロだった体重は、4カ月ほどで47キロにまで増え、風呂場では乳首以外にお腹まで隠さなければならなくなった。年頃の女のコが5キロも太れば、考えることは1つしかない。(こうなりゃダイエットや)

食事の時間は決まっているから、そのときさえ我慢すれば、後は食べたくても食べられない。絶対にヤセるはずだ。思い立ったら、すぐ行動。その日から私は、教官に見つからないよう米粒を一粒ずつゆっくり食べ、残った分は茶碗のふちにくっつけていかにも全部平らげたかのように見せかけた。この絶食ダイエットは効果てきめんで、最初は苦痛でしょうがなかったのが、だんだん食欲そのものが減退し、体重はみるみる40キロ台前半にまで落ちた。体力がなくなるとはいえ、真面目に作業をする気はないのだから、問題はなし。よっしゃ、もっともっとやせてやれ。

しかし、やっぱり無理は崇る。食べないクセがつくと、普通に食べたいときにすら食べられなくなり、無理矢理口に入れるとすぐに吐く。ヤバイなあと思ってるうちに、ついに体重は32キロに。周りのコは羨ましがるが、どう見たってガリガリだ。教官も異変に気づかないわけがなく、生活態度に問題ありとみなされた私は、個室の1寮で3日間の謹慎生活に。謹慎というよりは「治療」の意味合いの強い3日間なので、寝てばっかりの天国のような生活だったが、この3日間がマズかった。再び4寮に戻ったとき、部屋内の力関係が変わっていたのだ。
長期処遇者はそれぞれ入寮時期や期間が異なるから、必然的に4寮では人の入れ替わりが起こる。私が入って2カ月後には、緑バッジの今井さんが出院。その後も奈々さんが出て行ったり、他の部屋から誰かが移ってきたりと、過去にも顔ぶれは変わっていた。ただ、基本的に上下関係はバッジの色に対応していて、緑が偉く、ピンクは下っ端。誰が決めたわけでもないが、これは暗黙のルールだった。

しかし、私の謹慎中にそのルールが狂っていた。3日間の謹慎生活を終えた私が4寮に戻ると、川原さんという新入りのコが入っていた。妖精のように色白で、女の目から見ても抱きしめたくなるような可愛いコだった。当時すでに青バッジだった私は、先輩らしく聞いてみる。

「何して人ってきたん?」「人を刺して」「えっ」「妊婦を刺しまくったんや」

これまで4寮にいたのは、怖くてもせいぜい暴走族程度だった。そこにいきなり

「妊婦を刺したって、これどうよ。そんな凶悪なんは5寮やろ」

怖いなあ。もう。しかし今ごろビビっていたのは私だけ。私のいない間、すでに彼女はオナニー奥西の髪をつかんで、顔面を壁に叩きつけ、その凶暴ぶりを見せつけていたのだ。しかも鼻血を出してうめくオナニー奥西の横で、教官に向かって平然と「転んだんじゃないですか」と言ってのけたという。知らぬ間に彼女はトップの座に着いていた。誰もピンクバッジの川原さんに頭が上がらない。最初に先輩面した私も気に触ったのか、作業中にクワを持って追いかけられたり、リンスをふんだくられたりした。なんや、このコ。しかもこんなに可愛い顔して、乳首は私より黒いんだからイヤんなる。

もっといたかったのに10カ月で仮出院
入院10カ月目の3月レクリエーションの時間にテレビを見ていると、教官がみんなに声をかけた。テレビ室で声がかかるのは、誰かが出院することを知らせる恒例の儀式だ。「今日で吉原さんとはお別れです」何の前触れもなく突然言われ、私は驚いた。1年のはずがなぜ10カ月に?

盆踊りゃ水泳大会、婦人会の慰問など、とりあえずはソツなくこなし、最初はかけなかった作文にも、立派な大人になるべく目標なんぞを連ねるようになっていた私は、確かに優等生として見られる素養はあった。

ただ、私がそんな態度を取っていられたのは、早く出たいがためというのではなく、居心地がいいおかげで多少素直になれたからであって、実際、担当教官との交換ノートに「もっとここで暮らしたい」旨の希望を書いたはず。

追い出されれば私はまた小うるさいあの親の元へ帰らなければならないのだ。ま、でも、出ろと言われれば出るしかない。引き取り人がいない場合は、院に住みながら通える仕事を紹介してもらえるらしいが、私には残念ながら親がいた。結局、私は1年を待たずして仮出院。保護観察が付いているから、しばらくは彼の元へも行けないという悲しい状況だった。

★出院の日、門を出る前に2万円を渡された。家庭の時間に私の編んだレース編みが、バザーで売れたらしい。そんなことならもっと力を入れとくんだった。迎えに来た母親との帰り道は、見る物すべてが珍しかった。中でも、鶏の唐揚げとモチが交互に刺さった、へんてこりんな串焼きをサービスエリアで食べたときは、旨すぎて卒倒しそっになる。シャバに出れば煙草を吸いたい、悪友どもはいつもそう言っていた。すっかり感化されていた私は、母親に1本もらい、軽く吸ってみた。不味くてムセまくった。