BARとは得てして入店しづらいものであります。特に一人で初めて訪れたBARに入店する際の緊張感は只者ではありません。緊張の余り、近くの酒屋で発泡酒なんかを買って気分を落ち着かせたり、財布にいくら入ってるか何度も確認したり、用もないのに昔の彼女に電話なんかしたり、とにかく入店までの時間を引き延ばす傾向にあります。
そんなタダでさえ入りづらいBARという存在においても、ワンランク上の入りづらさを誇っているBARが都内にあると訊いて今回やってまいりました。例えばこれが麻布や銀座あたりの高級感溢れたBARならば入りづらいのも分かるのですが、今回訪れたのは都内の某下町の住宅マンションの2階に鎮座するBARであります。下町の呑み屋と訊くと上野の大衆居酒屋・大統領か立石の立ち飲み串屋・毘利軒を思い浮かべるのが筋ですが、訊けばウイスキーやブランデーなどを置いている本格的なBARとのこと。少し胡散臭いのが住宅マンションの2階という立地です。本来ならBARは地下や1階に多く、飲
み屋が集まったビルなら上階にもありますが、今回は普通の住宅マンションの2階ということで怪しさが半端ではありません。住宅マンションの一室に店を構えるなんてマンヘルか裏カジノと相場は決まっていますが、ここも表向きはBARを騙って裏では怪しい商売を営んでいるのかもしれません。営業時間は夜の7時からなのですが15分程早く着いてしまい、店の前では従業員らしき女性が看板を出している最中でした。しょうがないから背中越しに「やってますか」と声を掛けてみると女従業員は驚いたように振り返り「え!?え!?何!?やってません!」
とまるで路上で援助交際の誘いでも受けたかのようなリアクションを取り、店の中へと引っ込んでしまいました。早く着きすぎたこちらが悪かったと思い、30分ほど時間を潰し再度店を訪れると今度はドアが観音開きにされており、アリ地獄の如く、客を待ち受けておりました。入店するとBARにしては中は思ったより広くおそらく30席近くはあるでしょうか。客はおらず、カウンターの奥では先ほどの女従業員が洗い物をしているところでした。従業員はこの女史一人のようでどうやらバーテンダーも兼ねているようです。カウンターに近づくと女はこちらに気付き、なんと第一声で「魚屋さんですか」と尋ねてきました。驚きながらも「違います」と答えるとさらに「田中さんですか」と尋ねてきたのでこっちがうろたえていると「魚屋の田中さんですか」とさらに上乗せしてきました。倍プッシュしてきました。深呼吸してとりあえずカウンターの席に着き「違いますけど誰なんですかその魚屋の田中さんって」と訊くと「いえ、似てたんで」とそっけなく回答されました。
とりあえずビールを頼み一杯呑んでいると、入り口のドアから一人の女が入ってきました。客かと思いましたがいきなりカウンターの中に入って女同士で「久しぶり〜」
「元気してたの〜」とかいう会話を始めて一緒に洗い物を開始したので、どうやらこの女も従業員だと理解しました。しばし女同士のくだらない会話が続いた後に聞き捨てならないことを女Aが口走りました。「今日開店前に客が来てさ」「ウソ、マジで」「追い返しちゃった」「ウケる」というような流れの会話で、開店前の客とは明らかに自分のことだったのですが、どうやら向こうはそのことに気付いていないようでした。客が来ないまま時は経ち、2杯目にサイドカーというカクテルを注文すると女たちは顔を見合わせてしばし何やら考え始めました。どうしたんだろうと思っていると、棚から「カクテル大全集」なる分厚い本を取り出しページを激しく捲り出しました。それでも見つからなかったのか今度はどこかに電話を掛けようとしています。こちらと目が合い「すいませんちょっと作り方訊きますので」と女が言うので「じゃあ別のメニューで良いですよ」と言うと「本当ですか」と目を輝かせてメニュー帳を渡してきました。しょうがないのでレシピのいらない、ボトルから注ぐだけのタンカレーというジンを注文しました。すると今度は再びカウンター奥が慌しくなり、棚に置かれた無数のボトルの中からタンカレーのボトルを探す作業が始まりました。しばらく探しても見つからなかったのか、女は不審そうな顔をこちらに向け「メニューにタンカレーありましたっけ」と尋ねてきたので「左ページの上にありました」と告げると首を捻りながら再びタンカレーのボトルを探し始めました。
ようやく見つけることができたようでボトルを天にかざしこちらを見てニッコリと微笑んできたのでこちらも笑顔で応えようとしたのですが、顔が引きつってしまい歌舞伎の見得のような顔になってしまいました。その後も女同士の会話が続き、BARに来たつもりがマクドナルドに来たような錯覚に陥ってしまいタンカレーを素早く飲み干し会計を頼みました。会計の計算もいちいちメニュー帳の料金を見ながら行われチャージ料まできっちりと取られて、「おやすみなさい」と言われて店をあとにしました。