閑古鳥の鳴く店に赴く際は、事前に電話で営業の有無を確認することが必須であります。まずは電話が生きていることが第一関門、電話に人が出ることが第二関門、営業
していることが最終関門と、3つの関所を突破して初めて出掛ける準備に取り掛かります。そこで初めて顔を洗って靴下を履きます。今回もいくつかの候補のうちからようやく電話が繋がった一つの純喫茶がありました。電話口の店主によると「営業は朝の8時から夕方の16時半まで」とのことで、朝が早い割には夕方閉まるのがやけに早い純喫茶のようです。
「明日は営業してますか」
「大丈夫。待ってるよ」
という頼もしい言葉をいただき、翌日いざ都内南部の某地方競馬場近くの店へと馳せ参じました。寂れた店の前に着くとシャッターは上がっていたのですが、なぜか入口のドアを塞ぐように看板が立っています。不思議に思い自動ドアに手をかざしてみても開きません。ドア越しに中を覗くと店内は真っ暗で人の気配はなし。神隠しにでも遭ったのかと不安に思っていると、初老の紳士が「店の人ね、16時まで病院行ってるよ」と話し掛けてきました。「営業してないんですか」と訊ねると
「昼から16時までは病院だから帰ってきたらやるんじゃないかな」とのこと。閉店時間が16時半なのに病院から帰ってくるのが16時とは一体どういうことでしょうか。しょうがないので近くの競馬場で時間を潰し、16時前に改めて店の前で待機しました。この店で開店待ちをした人間は初めてなのか近所の住人の鋭い眼光がやけに気になります。するとタクシーが目の前で停まり、中から店主らしき禿げたおっさんが降りてきました。「昨日の電話の人かいな」と目を丸くしています。店主と一緒に店内に入るとモワッとしたこもった空気と共に、何か強烈な酸っぱい匂いが鼻をつきました。この匂いは何なんだろうと思ってると、店主は「腰のヘルニアやっちゃってさ、病院通ってるのよ。渋谷まで遠くて、タクシー1回と乗り換えが2回もある」
と午後を丸ごと休んでいた理由を事細かく説明し始めました。店内はカウンターが8席ほどあり、カウンターの奥にはなぜか肉や魚の缶詰がズラリと並んでいます。手前にはレトロなゲーム付きのテーブルが2つほどありますが段ボールが重なっており使用されている雰囲気はありません。とりあえずメニュー表を見て昔ながらの喫茶店らしくソーダ水を注文すると「それはない」と一蹴されました。そのあとレモンスカッシュ、カルピスも立て続けに首を横に捻られて、「逆に何がありますか」と訊ねたら「コーヒーと
コーラがある」と胸を張って言われたので、コーラとミックスサンドを注文しました。
店主はミックスサンドを作っている間、ずっとヘルニアの件を語り、病院を2回転院したことや1週間入院したこと、リハビリの過酷さなどを語ってくれました。そしてようやくミックスサンドが出来上がったと思ったら、店主は裏の勝手口を開けて外に行き、大きなプラスチックの容器の中に手を突っ込んで何かをこねくり回し始めました。そして中からキュウリと大根を両手に持ち再び店内へと戻ってきます。どうやらぬか漬けらしく、入店した時に感じたツンとした匂いの正体が判明しました。
「ちょっと若い人には酸っぱすぎるかもしれないけど、食べるでしょ?」
と言って当たり前のようにミックスサンドの横にコトンとぬか漬けを置いてくれました。店内にほかの客は一人もおらず、店主は自分の真隣の席に陣取り、やはり再びヘルニアについて語り出します。ついには「この前、腰に埋め込んでるボルトを新しくしたんだよ」と少年のように目を輝かせて語り、奥からビニール袋を持ってきました。ボルトが何本も入っておりこれがどうやら体内にあった古いボルトらしく「これが身体に入っていたなんて信じられないでしょ」とか「火葬したらお骨とボルトだけ残るからね」とか「雨の日は痛むんだよね」とか体内にボルトが入ってる人あるあるをいくつか披露してくれました。しかし、そのボルトをミックスサンドの横に置くものだから、ぬか漬けの酸っぱい匂いも相まって、さすがの自分もすっかり食欲が失せてしまい、一口も喉を通らない状況です。困った様子を店主が察してくれたのか、奥からサランラップを持ってきて「これ良かったら使って」と言ってくれました。しょうがないのでぬか漬けをラップで包みながら、なんだか悪いことしたなと思いつつ席を立ち、時計を見るとちょうど閉店の16時半だったので、早く店を閉めたかっただけなのだと気付かされました。