みなさんは雅楽をご存じだろうか。5世紀前後に中国から日本に渡ってきたもので、笙などの管弦楽をナマで演奏しつつ、舞い手(舞人ともいう)が舞をまう伝統芸能だ。まぁ、能みたいなもんである。
この雅楽の世界に、舞うと殺される舞が存在するという。死ぬ、ではない。第三者の手によって殺害されるのだ。その曲の名は『採桑老』。
不老不死を求めて彷徨う老人が次第に老いていく姿を現したものである。この舞、大昔よりそのネガティブさから、舞うと「不幸が起きる」とまことしやかに囁かれていた。
そこへ加え、平安時代から江戸時代にかけて、具体的な人数は不明ながら、『採桑老』を舞った人間が何らかのトラブルで断続的に殺害される。いつしか『採桑老』は舞ったら殺される曲として忌み嫌われるようになった。雅楽関係者は、その事実を恐れるあまり、秘曲扱いにしており、この舞が表だって舞われることはまずないそうだ。
古臭い話である。しかしそれだけにどことなく気味悪い印象がぬぐい去れない。「舞」という独特の世界も、その気味悪さに拍車をかける一因だろう。
とはいえオカルトはオカルトである。合理主義者としては身をもってひねりつぶしてやらねばならぬ敵だ。
まずは勉強のため、3年半ほど前にある男性が舞った『採桑老』のDVDを入手した。ずいぶんと命知らずな男性がいたものである。殺されてもいいのか?再生すると、欄干のある舞台に、白い装束を着た1人の人物が現れた。どうやら大勢ではなく、1人の人間が舞う一人舞のようだ。背後では、15、16人の人間が、笙や太鼓などを演奏している。複雑な動きはないので独学でも舞えそうだが、やはりプロから手ほどきを受けた方が無難だろうと、都内の雅楽教室へ向かうことにした。
「すいません、採桑老を教えていただきたいんですが」
取材の趣旨を伝え、教室の主催者の人物に頭を下げる。と相手が呆れたような表情を浮かべた。
「ソレは無理ですね」
「なぜですか?」
「私は『採桑老』がどんな舞な
のかわからないんですよ」
氏によれば、元来『採桑老』は多家という雅楽家の家に代々伝わる家の舞(家舞という)だったのだが、一子相伝が基本だったので、誰にも舞い方がわからないという。
「まあ、それは平安時代の話なんで、現代では多少、状況が異なってますがね」
『採桑老』は〝殺される舞〞である。伝承者のトラブルばかりか、
舞い手も少なく、何度となく舞そのものが消失する危機に見舞われたらしい。こうした中、『採桑老』はあちこちの雅楽家の元を転々とし、めぐりめぐって現在では宮内庁式部職の下に設けられている楽部へ。外部の人間に教えることはないとのことだ。
「だから私は、採桑老を教わったこともなければ、見たこともないんですよ」
「教科書のようなものはないんですか。資料とか」
「この舞に関しては、一切ありません」
う〜ん、さすが殺される舞、まさに秘曲中の秘曲である。
ならばDVDを見ながら、コツだけでも教えてもらうとするか。先生ならそれくらいのことはできるでしょう。
「ムリです。恐ろしい舞ですからね。教えられるわけないですよ」ちょいと過剰反応すぎないか。殺される舞とはいっても、大昔の言い伝えである。本当に身に危険が及ぶとお考えなんだろうか?「私だって伝説を鵜呑みにしてるわけじゃありませんよ。それくらい冷静な判断力はもってます。ただ…」
「ただ?」
「この舞は、宮内庁の楽部の中でも教えることができないほど恐れられているんです」
現在、宮内庁楽部には舞楽が40曲近くにあるのだが、この中に誰も教えてもらえない曲が3つある。『五節舞』『蘇莫者』『採桑老』だ。
理由は、最初が女の舞で、楽部は男所帯だから。次が某家の長子以外は誰も教えてもらえないことになっているから。そして最後の『採桑老』の理由はやはりこれだ。『舞うと、歳を過ずして必ず死ぬ』
まさか日本で最も権威のある場所にまで、『採桑老』の恐怖が根強く残っているとは。
「宮内庁でも教えられない舞を、私ごときが教えられるわけないじゃないですか」
もはや退散するしかあるまい。こうなりゃ独学だ。
12月上旬の朝9時、新宿区・某神社。境内に、朱色の欄干に囲まれたそれっぽいスペースがある。舞台はここでよかろう。これで私は近々、殺されることになった。銃殺か絞殺か、あるいは毒殺か。相手次第なので、手段はわからない。
ともかく自宅と会社の往復では、何も起きそうにないので、自ら危険な場所に出向いたほうがいいだろう。足立区は都内で最もガラが悪いとされている地域である。ヤンキー連中による物騒な事件もしばしば起きている。殺されるチャンスなんて山ほどありそうなもんだ。深夜0時。拘置所近くの、人気のまったくない高架下にたたずんでみる。ここで刺し殺されても、目撃者があらわれぬまま迷宮入りしそうだ。しかし恐るべきヤンキーそのものもどこにも見えない。どうやって殺す気だ。ゴルゴが狙ってんのか。
とそこへ、一台の乗用車がスピードを上げて走ってきた。なるほどひき殺すつもりだったのか。さすが殺人者、意外なとこから攻めてくるじゃないの。車はあっさり通りすぎた。実は少しビビってた自分が情けない。歌舞伎町にヤクザが集まる喫茶店がある。過去には店内で中国人による発砲事件も起きている。流れ弾で殺される可能性、なきにしもあらずだ。店内ではそれっぽい連中がそこかしこでコーヒーを飲んでいた。銃をぶっぱなしそうなのは、あの人とあの人か。
テーブルに着くや、若い女性の店員が近づいてきた。手に黒いものを持っている。もちろん拳銃ではなく伝票である。コーヒーを飲みながら、周囲を見わたす。なんだかみなさん和やかだ。これじゃ殺されっこない…ん?
よもや毒殺とか?このコーヒーやけに苦くない?ブラックってそういうもんか。六本木は恐い。特に黒人連中は血の気が多く、日本人とケンカになることも珍しくない。私みたいなへなちょこ、襲われたら瞬殺だ。メインの六本木通りにはあちこちに黒人がいた。そのうちの1人がこちらを見るや、ニヤニヤしながら近づいてくる。来たか、殺人鬼。男は前を立ち塞ぎ、か細い肩に手をかけた。
「ヘーイ、○×□△×!」 私の翻訳によれば、へーい、お前をぶち殺して目ン玉ほじく
りかえして鳥のエサにしてやるぜ!となる。なのにどうして彼は握手を求めてくるんだろう。そんなに私の服装が珍しいか?